【現在も】放射能非常事態宣言【発令中】②生きものの記録

1.閑古鳥(生きものの記録)

今井浜は秋深く、夕暮れ前の明るい陽射しに相模湾は一面の茄子紺色だった。
私が縁側の障子を開けた舞子園の母屋の8畳で東映の仕事をしていると、襖を蹴り破るような勢いで姉娘(引用者(注);家族経営旅館の客室係)が飛び込んできた。

「先生!黒澤先生がお見えになりました!」

事前に何の連絡も通知もない、全く突然の来訪である。

姉娘があたふたと座布団を縁側に据えると、黒澤さんは黙って腰をおろすが、またじっと海を見つめる。
黒澤さんは依然としてなにもいわず、少し強まる風の中で黙り込み、海を見つめたままである。
その表情はドン底へ落ち込んだ者の、苦渋を極める懊悩(おうのう)の顔付きだった。

東宝系で封切った「生きものの記録」が記録的な不入りで、見るも無残な興行上の大失敗をしたのである。
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【出典;スリム鳴造蔵書「複眼の映像(著者、橋本忍)」P238~P239より抜粋して引用しました。】

上記は「羅生門」「生きる」「七人の侍」など、黒澤映画の共同脚本家の橋本忍先生の著作からの引用です。
橋本先生は「切腹」「砂の器」「八甲田山」などの脚本も手掛けられています。
黒澤監督作品で日本映画史上最大のヒット作となった「七人の侍」・・・
それに続く作品で興行上の大失敗作となったと橋本先生が語る黒澤映画「生きものの記録」とはどんな作品だったのでしょうか・・・・・・
「生きものの記録」」の画像検索結果

生きものの記録』(いきもののきろく)は、1955年(昭和30年)11月22日公開の日本映画である。
東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎。

米ソの核軍備競争やビキニ環礁での第五福竜丸被爆事件などで加熱した反核世相に触発されて、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた社会派ドラマ。
当時35歳の三船が70歳の老人を演じたことが話題となった。

この映画のみどころは、三船敏郎演ずる老人が日本の状況に危機感を持ち行動を起こすが、日常の生活を優先する家族に締め上げられ次第に狂っていく綿密な描写にある。

『あらかじめ分かっている問題にどうして対処しようとしないのか』というのがテーマとなっている。

映画監督の大島渚は鉄棒で頭を殴られたような衝撃を受けたとしており、徳川夢声は、黒澤に対して「この映画を撮ったんだから、君はもういつ死んでもいいよ」と激賞したという。
また映画評論家の佐藤忠男は「黒澤作品の中でも問題作」と述べている。

しかし、脚本家の橋本忍の回想によると『生きる』『七人の侍』の大ヒットに続いた作品にもかかわらず、記録的な不入りで興行失敗に終わった。
その原因を、脚本作りのミスと、原爆という扱いづらいテーマを取り扱ってしまったことによる、と橋本は分析している。

黒澤自身はこの映画について「自身の映画の中で唯一赤字だった」と言い、その理由について「日本人が現実を直視出来なかったからではないか」と分析している

【出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』生きものの記録 より抜粋引用】


【出典;黒澤明入門 警鐘~「生きものの記録」   より】

作品が面白くないとか、中身が難し過ぎるとかで減ったなら分かる。
だが頭から客の姿は劇場になく、全くの閑古鳥なのだ。
まるで底なし沼に滅入り込むような空恐ろしい不入りである。
と同時に、映画の観客の本能的な叡智の鋭さに、私は慄然として身震いした。
人類が保有する最も不条理なもの、その原爆にはいかに対処し、いかに考え、いかに解決すべきかなどの哲学が、映画を作るお前らにあるはずはないと、観客は頭から作品の正体を見抜き、徹底した白眼視の拒絶反応で一瞥しかしないのだ。

【出典;スリム鳴造蔵書「複眼の映像(著者、橋本忍)」P238~P239より抜粋して引用しました。】

映画「生きものの記録」の興行大失敗の原因・・・・
橋本先生は「原爆の恐怖を扱うテーマでの脚本作りの失敗」を挙げておられます。
一方の黒澤監督は「現実に目を背けたい日本人のマインド」と分析しました。

『あらかじめ分かっている問題にどうして対処しようとしないのか』by黒澤明

原爆は悲惨だ。
でも、現実問題、つらい過去は忘れて今日を生きなければ人間は息が詰まってしまう・・・
映画、テレビ、プロ野球・・・・何百万もの屍を乗り越えて高度成長を続ける戦後10年経過した昭和30年代の日本・・・
のど元過ぎれば何やら・・・・良い悪いの問題ではなく、しょせん人間とはそんなものなのかもしれない・・・・・
それが「原爆==戦争反対」「新エネルギー=原子力=平和産業」といつの間にか「シレ~」と世論構成されていったのでありましょう。

核も原子力も、英語では「ニュークリア」で「同じ」だというのに・・・・・・よ。



2.大盛況(原子力平和利用博覧会)原子力

アメリカが南太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行なったところ、近くでマグロ漁をしていた第五福竜丸の乗組員がこの実験の死の灰を被ってしまった。
第五福竜丸事件である。
これによって広島・長崎への原爆投下で世界最初の被爆国になった日本は、水爆でも最初の被曝国になってしまった。
やがて日本全国に原水爆反対平和運動が巻き起こり、原水爆禁止の署名をした人々の数は3000万人を超えた。

これは日本の戦後で最大の反米運動に発展し、駐日アメリカ大使館、極東軍司令部(CINCFE)、合衆国情報局(USIA)、CIAを震撼させた。
これら四者は、なんとかこの反米運動を沈静化させようと必死になった。

彼らは終戦後、日本のマスコミをコントロールし対日外交に有利な状況を作り出すための「心理戦」を担当していた当事者だったからだ。
反米世論の高まりも深刻な問題だが、実はそれだけではなかった。
この頃国防総省は日本への核配備を急いでいた。
ソ連と中国を核で威嚇し、これ以上共産主義勢力が東アジアで拡大するのを阻止するためだ。

そのために彼らが熱い視線を向けたのが読売新聞と日本テレビ放送網という巨大複合メディアのトップである正力松太郎だった

第五福竜丸事件を経て、日本への原子力導入、ディズニーの科学映画『わが友原子力(原題Our Friend the Atom)』の放映、そして東京ディズニーランド建設へと続いていく。
その連鎖の一方の主役が正力であり、もう一方の主役がCIAを代表とするアメリカの情報機関、そしてアメリカ政府であった。

【出典;「原発・正力・CIA: 機密文書で読む昭和裏面史 (新潮新書、著者;有馬哲夫) 」Amazonレビューより、抜粋引用させていただきました。】

【出典;茨城県ニュースNO.18(1957年(昭和32年度)制作)「原子力平和利用茨城博覧会開催」を共有埋込コードにより引用させていただきました。】

国内外から年間130万人前後が訪れる原爆資料館。
被爆者の遺品や熱線で溶けた瓦などが並ぶ。
開館から56年。
この間に1度だけ、原爆の惨状や放射線の恐怖を伝えるそれらの資料が館外に移された時期がある。1956年5月27日から22日間。資料館での「原子力平和利用博覧会」の開催時だ。

博覧会の巡回展を日本側で主導したのは、読売新聞社元社長の正力松太郎氏。
55年衆院選で「原子力の平和利用」を掲げて初当選し、初代の原子力委員長も務めた。
後に首相となる中曽根康弘氏らと歩調を合わせて原子力政策を推進。
正力氏は「日本の原子力の父」と呼ばれた。

当時の中国新聞記事によると、広島会場の展示品は実験用原子炉の実物大の模型、電飾を用いた核分裂反応の模式図、核物理学者の紹介パネルなど。
約11万人が訪れた。 

特に人気だったのは機械式アームの「マジックハンド」。
アームの先端で筆をつかみ「平和」「原子力」と書いた入館者もいた。
装置が本来扱うのは、危険な放射性物質だったが。

博覧会から2年後の1958年4、5月には、市内で「広島復興大博覧会」が開かれた。
このとき原爆資料館は会場の一つとして「原子力科学館」と一時的に名称を変更。
被爆資料とともに平和利用博とほぼ同じ展示品を並べた。
原爆投下から11年後。
原子力平和利用博覧会の会場に、なぜ被爆地が選ばれたのか。
そこには米国の世界戦略が透けて見える。
1954年3月、米国が太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験で、日本のマグロ漁船第五福竜丸が被曝(ひばく)。
これを機に東京都杉並区から始まった原水爆禁止の署名運動は全国へと広がった。
立教大の井川充雄教授(メディア社会学)は「米国は反核意識が反米意識につながることを恐れていた。その懐柔策の一つが原子力平和利用博覧会だった」とみる。
米政府の宣伝機関(USIA)は国内6会場で来場者の意識を調査。
井川教授はその報告書を米国立公文書館で入手、分析した。

「USIAは特に、広島での調査結果に興味を持っていたようだ。ここで受け入れられれば日本人の核アレルギーをぬぐえるはずだと」。
広島会場については全体の報告書のほかに、特別のリポートを作っていたという。
そしてそこには「予想以上の成功」「地元の指導者たちに支持された」と記載されていた。

【出典;中國新聞ヒロシマ平和メディアセンターHPより、抜粋引用させていただきました。】

戦争は悲惨だ。
原爆水爆はだめだ、戦争反対だ・・・・・・・・
「核兵器→反対→ノーモアヒロシマ」
        ↑
・・・・ふふん、誰も反対するものはいないだろう。。。。。。
原爆や水爆の悲劇を体験してきた日本人が、人類が未だ制御不能の「放射性物質」に対する不信感危機感を持つのは当然であろう。

た・だ・し。。。。。。で、あろう。

巨人阪神いやカープも含めてプロ野球などの娯楽に夢中にさせられて、もちろん娯楽は大事だが、その間に、いつの間にか「人類が制御不能な恐ろしい放射性物資」について、「核兵器から原子力へ」そして「原爆から平和へ」とシレーと分けられたりすり替えられても、最早、抵抗も考える術さえない。。

原爆資料館は会場の一つとして「原子力科学館」と一時的に名称を変更。
       ↑
映画「生きものの記録」に見向きもしなかった日本の大衆は、何万もの子供や同胞が焼き尽くされたことを記憶にとどめ風化させないための施設「原爆資料館」を「原子力科学館」と名称変更されても、最早、抵抗も考える術さえない。。
むしろ「原爆と原子力は違うんだ。原子力は新たなクリーンエネルギーを産み出す平和の象徴だ。」と。

そして「原子力→賛成→ワンモアフクシマ」が起きてしまう。

【出典;東海村に原子の火ともる(1957)より】



3.アンダーコントロール(現首相vs元首相)

「私が安全を保証します。状況はコントロールされています」

「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの港湾内に完全にブロックされています。」

「健康に対する問題は、今まで(原発事故以降)も、現在(2013年東京五輪誘致)も、そして、将来(2020年五輪開催)も、全く問題がないと約束します。」

【原発事故に関する安倍総理の答え IOC総会質疑応答(13/09/08)ANNnewsCH 

小泉純一郎元首相は7日、日本外国特派員協会で記者会見し、東日本大震災で事故を起こした東京電力福島第1原子力発電所の汚染水について、安倍晋三首相が五輪招致の演説の際に「アンダーコントロール」と発言したことについて、「うそ」と批判した。
安倍首相の発言について小泉氏は、「うそですよ。これはアンダーコントロールされていない」と述べた。
凍土壁で汚染水を遮断する現在の取り組みについても「地下水をコントロールすると言うんだけど、いまだにコントロールできない。やるやる、できるできるって言ってできない」と述べ、「よくああいうこと言えるなと、俺、不思議なんですよ」と語った。

【出典;ブルームバーグ 2016年9月7日より】
【小泉元総理が語る3.11と原発 (2018/3/7「報道ステーション」放送) ANNnewsCH


4.令和2年も放射能非常事態宣言発令中(ぽぽぽぽーん)

東日本大震災と原発事故発生当日の2011年3月11日、「原子力緊急事態宣言」が発令されました。

福島第一原発の吉田所長の手記によれば、福島第一原発「2号機」の原子炉の減圧作業がうまくいかず、原子炉の水位がどんどん下がっていったとき、吉田所長は死を覚悟されたとの事。
それは2号機のメルトダウン&格納容器が破壊された場合、人間が敷地内に留まることができなくなり、1号機と3号機には注水作業ができなくなり、さらに4号機の使用済燃料プールも何ら対策が打てなくなることを意味したのでありましょう。

さ・ら・に。。。。で、あります。

それからは第一原発から南に約10㎞に所在する福島第二原発、そして茨城の東海第二発電所も連鎖的にオペレーション不能になり、正に「東日本地域全体に人が住めなくなってしまう」という、正に一歩手前の危機的状況であったということを忘れてはならないでしょう。

第一原発から撤退するシナリオもあったようですが、このときには時の菅首相が電力会社本店に乗り込んで「2号機を放棄すれば、何カ月後にはすべての原発、核廃棄物が崩壊して放射能を発することになる。チェルノブイリの2倍から3倍のものが10基、20基と合わさる。日本の国が成立しなくなる。皆さんは当事者です。命をかけてください。会長、社長も覚悟を決めてくれ。60歳以上が現場へ行けばいい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。撤退したら、東電は必ずつぶれる」と演説したようです。

実際に、日本は、汚染によって住めなくなる地域「東北、関東」と、それ以外の地域「北海道」と「西日本」という三つに分かれるぎりぎりの状態だったかもしれないと、当時の原子力安全委員長の回想もあるようです。
東京新聞(2014年09月24日).jpg
【出典;東京新聞「原発のない国へ」特設サイト
 「調書は語る 吉田所長の証言 (8)東日本壊滅の危機 一番思い出したくない」
幸いにも2号機の壊滅的な破滅は起こらず、第一原発に人間が留まることが出来て「東京にも人が住めなくなる」という「最悪のシナリオ」だけは何とか避けられたようです。

しかし、恐ろしい事は「なぜ壊滅的な状況に至らなかったのか、詳しくは分かっていない」ことと、他の政策や民主党が嫌いとか良し悪しはともかく、この原発事故に関しては「菅首相がオノレの死も覚悟して日本国を救うために動いた」のに、全く評価されず、それどころか「日本の首相を徹底的に叩いて悪者にできる外国の巨大な影響力と圧力とそれを受け入れる日本人の同調圧力気質」で、ありましょう。

そ・し・て。。。。。。で、あります。

「原子力緊急事態宣言」は、
もちろん、
9年経過した
2020年3月11日現在・・・・
今日も「発令中」です。
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スリムだ、ヘルシーだ、と書き殴ったり、ブログ映えしない「食事画像」を毎日アップしまくる拙ブログですが、そんなことができるのも、そもそも「安全で安心して暮らせる社会システムがあって初めてブログもできる」と、スリムちゃんは考えます。
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原発の話をすると、ややもすると「右だ左だ」と政治っぽい風潮にされて「喉元過ぎれば”お・も・て・な・し”」というユニークな日本社会ではありますし、つらい現実と毎日向き合って生活できるほど人間は強くないので、普段は忘れても仕方ないのかもしれません。

た・だ・し。。。で、あります。

「人間が住めなくなる原発問題」だけは、例外でありましょう。

「ふる里が消えてしまう原発事故」・・・生きものの記録で興行大失敗の苦難を経験した黒澤監督の晩年の作品「夢」とのタイトルがついた映画でも描かれておりましたが、今や「(悪)夢」ではなく、現在進行中の「(正夢)現実」になりました。

スリムちゃんブログでは、私たちの子どもや孫が安心して食いまくることができる未来のために、当シリーズ「放射能非常事態宣言」を、これからも継続してまいります。

原発を話題にすると「右だ左だ」といった政治的な同調圧力のムードが漂っていますが、「実際に人が住めなくなるんだ!」という事から考えますと、原発事故は決して風化させてはならないし、キチンと向き合って過ごすことが、ややもすれば、この国に住む大人の責任でありましょう、と、スリムちゃんは考えます。
そう、もう二度と「原爆資料館」が「原子力平和科学館」と改名されないためにも・・・・・・
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【現在も】放射能非常事態宣言【発令中】シリーズ
 (2019.3.11~連載中)

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